はじめに
これは技術の善悪の話ではない。明日の食費のためにあなたがどう行動すべきかという話もしないし、法的な話もしない。
これは、クリエイターとしてのプライドの話であり、人間としての礼儀の話である。
ピアニストの技術
では、例え話から始めよう。自分は、DAW のおかげでたくさんの曲を作ることができた。ピアノソロ曲も作った。しかし、ピアノや他の楽器が弾けるようになったわけではない。あくまで得られたのは、曲を作れるという『すごさ』だけである。
ピアノや他の楽器が弾ける人のことは尊敬しているし、少しだけでも良いからピアノを弾けるようになりたいとも思う。(今はちょっと手元に 25 鍵盤しかなくて練習できてないんですけれども……。)でも、もし自分が「ピアノで弾きました!」と言って打ち込みの曲を公開したら、それはただの嘘つきだし、視聴者の期待を裏切る行為だ。たくさんの人が DAW で曲を作ったとしても、ピアノが弾ける人の『すごさ』が下がることはない。
一円玉を精巧に積み上げる行為や、お菓子のパッケージで格好良いフィギュアを作る行為も、そこには『すごさ』がある。その『すごさ』に価値や面白さ、楽しさを感じるかどうかは人それぞれだし、「だから何?」と思う人も居るかもしれない。しかし『すごさ』が消えてしまうことはない。もし一円玉を積み上げるために接着剤を使っていたら、その『すごさ』は偽りのものということになり、それを知った受け手は当然怒るだろう。
そう、創作活動の結果というのは、完成品そのものの価値と、『すごさ』という価値のふたつが存在するのである。そこに優劣はなく、どちらも間違いではない、大切な指標だ。
クリエイターとしての価値のレンタル
このような対比はいくらでもある。会議で使うスライドにいらすとやの画像を使ったり、同人誌の表紙にモリサワのフォントを使ったり、有償の 3D モデルを使って CG をレンダリングしたり、VTuber が自分の歌ってみた動画の MV を誰かに依頼したりしても、本人がその分の『すごさ』を得られるわけではない。それを生み出すために必要な、ツールを使うためのスキルや知識、物体の観察力、唯一無二の個性などを手に入れたわけではないからだ。クレジット不要のロイヤリティフリーの素材だったとしても、その点が変わることはない。
もちろん、既存の素材を利用することが必ずしも悪いことだとは言っていない。音 MAD は確かに既存の素材を二次利用しているが、そこには新しい『すごさ』が付加されている。それに、実務においてはわざわざ自分で素材を作るよりずっと現実に即している場合もあるし、受け手にとっても様々なメリットがあるかもしれない。足るを知るという言葉もある。そもそも、誰かと協力して目的を達成することは、人間として大切なことで、それ自体がひとつの重要なスキルだ。
それでも、自分がクリエイターとして偉く、カッコよくなったような気がするのは、ただの勘違いである。
そう、自分がこの『すごさ』という「自分が生きてきた証」を残せるのは、自分が何かを頑張った、ちょうどその分だけなのである。そして、その『すごさ』を生み出すというプロセスを積み重ねていくことで、より高い「技術」を得ることが、生き続けることの醍醐味なのである。憧れの人のイラストをコピー機でコピーしたからといって、その人になれるわけではない。
ファンアートの話
そして、最も重要な話のひとつとして、この『すごさ』を他人がどう感じるかについても触れておきたい。ファンアートを嬉しいと感じるのは、人にもよるとは思うが、その作品が単に素晴らしいということだけではなく、「ファンアートを描いてくれた人の好きという気持ち」を感じられるからでもある。(なお、ここでいうファンアートというのは、原作者に隠れて行う、たとえばえっちな同人誌のようなものではなく、原作者本人に見てもらうことを目的として制作されたものを指している。)描いてくれたその絵が上手いかどうかとは無関係に、その絵を描くという行為に手間暇を掛けてくれたということが、好きという気持ちの深さを私たちに感じさせるのである。
もちろん、完成品からは見えない努力というのもある。最終出力には現れない試行錯誤というものもある。それでも、その『すごさ』や人間的な意思が推察できない形でファンアートをプレゼントされたら、受け手は困惑して愛想笑いをするしかないだろう。
人間としての礼儀の話
ましてや、その職人的な技術の積み重ねを簡単に盗まれて、さらには職人的な技術そのものを無意味なものだと馬鹿にされたら、激怒するのも当然のことだ。そのような借り物を原作者に送りつけるのは、もはや NTR ビデオレターのようなものかもしれない。これは、人間的な感情の話であり、人としての最低限の礼儀の話だ。
自分は、高い技術を持ったクリエイターやエンジニアたちを素人なりに尊敬している。しかし、それらの技術を馬鹿にして、人を不快にさせるようなことを言う人たちが許せないのだ。私たちが憧れ続けていたはずのエキスパートたちを見下すようなことを、わざわざ言う人たちが許せないのだ。そして、自分にとって大切な憧れの気持ちが、自分は偉くなったと勘違いをして騒いでいる人たちに蹂躙されることが耐えられないのだ。
まとめ
他人やマジョリティが新しい技術に対してどう考えているかに関係なく、『すごさ』とか人としてのカッコよさというのは、時代を超えていつまでも不変のものである。自分自身が創作活動のどのプロセスを大切にしているのかを明確にした上で、しっかりとしたプライドを持って、私たちは創作活動を行わなければならない。
一方で、『すごさ』はあくまで価値のひとつの指標であって、誰にとっても同じ大切さを持つものではない。フリーランスやプロのクリエイターは、納期やクオリティラインを守るために様々な手段を駆使しなければならないこともある。他人の意見に翻弄されるのではなく、自分の生きる目的を考えながら、自分自身の人生のための創作活動を行って欲しい。
そして、その選択をしたあなたも、全ての技術を持つ人たちに最低限の敬意を持つことを忘れないでほしいと思う。
