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AIについてのボツ漫画とそれについての雑記

なんかこの気持ちをどこかに文章として書き残しておかないとまた同じことで一生悩み続けそうだな、と思ったので。

「若い人は漫画を描かないよね」ってTwitterで煽られたのでお気持ち表明エッセイ漫画でも描こうかと思ったんですが、でも自分が創作で表現したいものって「可愛さ」「楽しさ」「エロさ」なのであって、創作物でお気持ち表明する気にはならないなと思ってやめることにしました。
そもそも創作を始めた頃は、素晴らしいものを見て、自分もこんなものが作りたい、良いものが作りたい、と思ったのが最初でした。絵を描く時間が取れるなら、自分はそれをエロ漫画やエロイラストを描く時間に割きたいと思っているし、実際そうするつもりです。

以下、これは自分の心の整理のために書いた文章です。

「ツール」と「創造性」

そもそも、どんなにツールが発達しても、自分が作ったと胸を張って言えるのは、自分が努力した分だけなのだ。
たとえば世の中にはたくさんのイラスト素材や3Dモデル素材があって、それを使って作品を作ることはできる。でも素材を使って作った部分を褒められても嬉しくないし、むしろ苛立ちすら覚えるかもしれない。だからこそ、なるべく自分の作品の中にフリー素材は使いたくないし、自分のクリエイティビティで勝負したいと思っている。
別の例を上げるなら、楽器の演奏が挙げられる。ポピュラー音楽のオケを作る場合、大抵の場合はDTMで作成するだろう。しかし、その作成された音楽に対して、演奏の技量が評価されているわけではない。DTM全盛期だからといって楽器を演奏する人が居なくなるわけではないし、楽器を演奏する技量に対する評価もなくなることはない。
もちろん電子音楽を作ることは自由である。今はむしろ電子音楽を好む人のほうが圧倒的大多数だろう。そうして出来たものがそれぞれのクリエイターにとって目指すものであるかどうかは、それぞれのクリエイターが判断するべきことだ。しかし、それは前提条件でしかない。
AIイラストを作る自由だって当然我々にはある。しかし、それによって得られるのは、AIという「ツール」によってイラストを生成したという事実だけであり、絵を描くという技量が評価されたわけではない。
つまり、結局のところ何を作るにしても自分が頑張るしかないのだ。何を作るかという自由度はあるが、何を作ったとしても、生きる意味として成立するのは自分の努力した分だけであり、自分の努力していない部分は生きる意味としては成立していないのである。
逆に創造物としての価値に影響がない部分であれば、素材集や、あるいはAIを使うのはアリかもしれない。例えば、キャラクターがメインの漫画における背景や、目立たない小物、同人誌の表紙、おしながき、サークルロゴなどだ。しかし、結局作品の(自分にとっての)メインである女の子などは自分の手で描くしか無い。創作というのは手を動かすことでしかないのだ。だからこそ、良いものを「創る」ためには自分の手を動かすしか、つまり努力するしかなくて、そして生み出された創造性の量というのはその努力した時間の分しか存在しないのだ。
だから、AIの登場を以てお絵描きに意味がないと感じるのはあまりにも早計であり浅はかである。
ただし、目的が趣味ではなく商業的なコンテンツの制作であれば、有償・無償を問わず多くの素材を使って楽をするのは大いにアリだろう。

趣味と「自分が行動するという行為」

何もこれらの話は創作活動に限った話ではない。他の趣味でも同じようなことが言える。
例えば山登りだってそうである。高尾山の山頂に行きたいだけれあればケーブルカーやリフトを使えば良い。しかし、歩いて高尾山に登る人が今でも老若男女問わずたくさん居るのは周知の事実である。これは、歩いて山に登るという行為そのものに意味を感じているからだろう。爽やかさだとか大自然の空気だとかを感じたいというのもあるだろうし、ダイエットがしたいからという切実な理由かもしれない。または、世の中にはエベレストの登頂に挑戦する人もいる。エベレストの登頂は難しい行為であり、達成感や充実感を得られるだけでなく、登頂成功よって得られる名声も相当なものだろう。
他の身近な例で言えばジグソーパズルや知恵の輪が挙げられる。ジグソーパズルよりもタペストリーや絵画の方が、繋ぎ目も無く鑑賞に適していて、壁に飾るものとしての価値は高いだろう。知恵の輪を外して手に入れられる物も、ただの外れた知恵の輪でしかない。しかし、それでもジグソーパズルや知恵の輪で遊ぶ人が居るのは、各々がそれをするという行為そのものに価値を感じているからだろう。
つまり、趣味を語る上で成果物だけで考えるのはナンセンスだということだ。

成果物至上主義の否定

時々自分は成果物至上主義に陥ってしまう。良いものが作れればどんな方法でも構わない、良いものが作れなければ作る意味がないとする考え方だ。しかし、先ほどの喩え話は大切なことを教えてくれていると自分は思う。絵が上手くなくても絵を描いて公開する意味は十分にあるのだ。自分より絵の上手い神絵師が居たら自分の存在価値はゼロになってしまうのかというと、そんなことはないはずではないか。そんな誤謬に容易く陥ってしまうのは、自分は絵が上手いという思い込みがあるからに他ならない。そうでなければ、絵の下手な自分は絵を描かないはずではないか!! ああ、そんなうぬぼれは今すぐゴミ箱に捨てなければならない!

AIイラストと感情論

ところで、自分は「漫画の背景や目立たない小物」にはAIを使うかもしれないと言った。とはいうものの、著作権に対する感情的な問題が存在しているため、自分はAIを使う予定はない。この感情論こそが、自分がモヤモヤしてしまった一番大きな理由かもしれない。
どういうことか説明しよう。
「AIで生成した美少女イラスト」というのは、恐らく、絵の上手さで言ったら自分の何倍も上手い。それでいて絵の生産スピートは比較にならないほど早い。
自分が初めてAIのイラストを見たとき、それはとても価値のあるものであり、将来的には自分の下手クソな絵を見たいという人は居なくなるだろうと思っていた。そして、自分が絵を描くという行為が創造的な行為として意味を為さなくなるのではないかと思った。だから、自分はもう絵を描くことを辞めてしまいたいと思った。
しかし問題があった。AIイラストは必ずしもまだ世間に受け入れられてはいないということである。AIイラストを公開して、世間から称賛を得ることができるだろうか。(何も持たざる者が数万フォロワー、数百いいねを得られるなら十分な称賛かもしれないが。)AIイラストを同人誌やタペストリーにして売って、批判を受けないだろうか。少なくとも現時点では全く批判を受けないということはないだろう。AIイラストに対して個々人がどのような立場を取るべきかというのは難しい問題である。しかし、少なくとも、自分はAIでイラストを作ってインターネットで発表することはできない。自分はAIイラストを自分の作品として公表するような真似はできなかった。だから自分の手で描くしかないのだ。
これが自分の中でモヤモヤが生じてしまった原因なのだと思った。自分の中で、「良いものを作ること」と「良いものを公表して作品として残すこと」の間にズレが生じてしまっていたのである。AIイラストを自分の作品として公開している人たちに対して、羨ましさを感じたのである。
しかし最初に述べた通り、今はもうAIで美少女のイラストを生成して発表するつもりはないので、モヤモヤを感じることはなくなった。

お絵描きと、大人として生きるということ

自分がなぜ絵を描くのかということについて、蛇足かもしれないが、もう少し踏み込んで考えてみよう。
まず自分は楽しいから絵を描いているのではない。もちろん絵を描くことも楽しいし、嬉しいこともたくさんある。自分が成長していくことに無上の喜びを感じることもある。趣味というのは過程にこそ意味があるのだということも既に述べた。だが、これについて、もう少し補足させてほしい。
最初に絵を描き始めた頃は、素晴らしいイラストを見て、自分もこんなものが作りたい、良いもの(つまり可愛い女の子のイラスト)が作りたい、と思ったのが最初だったような気がする。もちろんそれが根本にある。だけどこの表現では少し齟齬を生じるかもしれない。
自分にとっての「良いものが作りたい」という目的は、作品を公表して初めて達成されるのである。公表しないなら死んでいるのと変わらない。だから、「良いものを作って世に残したい」と言ったほうが正確かもしれない。
正直、お絵描きをする楽しさと比べたら、何もしない方がずっと楽である。別に達成感や充実感を感じて生きなければいけない理由もない。何かをするにしても、楽しさで言ったら寝ることの方が上だ。あるいはYouTubeやニコニコ動画を見ることでも良い。そういったことの方が楽しいし、楽なのだ。でも、それと趣味を持つかどうかとは全く別の話だ。
他に何もしないまま辛い仕事だけして生きていくくらいなら今すぐ死んだほうがマシである。でも死にたくはない。死にたくないのであれば、生きている意味を生み出すために、自分にとって価値のある何かをこの世に残さなければならない。そうすることで、生きる意味が生まれるからだ。ゲームをしたりYouTubeを見たりしてもただ一時の快楽を得るだけで、またすぐに生きる苦しみがやってくる。創作活動を続けなければならない。他人がどのような理由で創作しようと自由だし、創作活動をしないのも自由だ。じかし、自分はそのように考えると決めたし、それしか死なない理由を見出す方法が見つからなかった。自分が生きている意味を残すために苦労して絵を描くのである。だからこそ、AIではダメなのだ。
どんなにテクノロジーが発達しても、人生って楽することは出来ないんだな、と厭世的になってしまった。

AIの表現力の限界と未来の話

もちろん、AIの表現力に限界があるという見方もある。「AIで作ったイラストには魅力を感じない」と優しい言葉をかけてくれるフォロワーも居る。その言葉を聞いて、本当に救われたように感じた。
また、線画があって、ベタ塗りがあって、という過程をAIの絵からは感じられないため不気味に感じる、という人もいる。絵はサムネイルならごまかしが効くので、評価してしまう人が多いのではないかとも言っていた。
あるいは、学習データの少ないジャンル、例えばR-18のケモノイラストに関しても人間が優位なのではないか、と言っている人も居た。自分はケモナーではないのでこの点に関しては判断できないが、確かにそういう面はあるかもしれない。
しかし個人的にはこれらの意見に対しては懐疑的である。これらの問題は、次第に、かつ急速に解決されていくだろうと個人的には考えている。
でも嘘でもいいから「AIで作ったイラストには魅力を感じない」と言ってほしいと心の底では思っているし、そういう時代がずっと続いてほしいと身勝手ながら思っている。

現状の冷静な分析

ただ、現状はさほど悲観的ではない。
現時点では、ネット上にAIイラストは氾濫しているが、それと同じくらい新作の手描きイラストも溢れている。それだけ現時点では、手描きのイラストに価値を感じている人間が居るということであるし、イラストを描くという行為に価値を感じている人間も居るということだろう。
また、先日の冬コミでも、頒布した本はいつも通りたくさん売れた。他の人も人間が描いた同人誌を買っていた。人類の可処分時間がAIイラストの鑑賞に割かれているのだから、売上にマイナスの影響が全く無いということはないだろう。しかし、そういった差があったかどうかということまでは分からないが、冬コミの様子ががらんと変わってしまうということはなかった。DLsiteにおいても、AI作品の割合はかなり増えたが、AI以外の作品もたくさん発表されている。
つまり、冷静に現状を分析すると、今まで通りに絵を描くということは、今まで通りの需要に応えるということになると確信した。AIの表現力に限界があるという意見に対して懐疑的だと答えたが、しかし現時点ではAIの表現力に限界があるという意見も一理あると言えるのではないだろうか。

おわりに

自分は当面の間はAIイラストを公表することはないし、AIで生成されたイラストの創作行為としての価値を認めることもないだろう。この言い訳を苦し紛れだと感じるならそうかもしれない。でも、やっぱり自分の手で絵を描くことを辞めたくはなかったし、現時点では辞める必要がないという理由が欲しかった。メンタルよわよわのインターネット弱者だと思うならそう思ってくれてもいい。考えの古い老害だと思うならそう思ってくれてもいい。ただ、悩み続けるのではなく、前に進むために、創作活動を辞めないために、自分の中の立場をはっきりさせておく必要があった。これが今の自分の現時点でのAIイラストに対する立場だ。
今後の同人イベントでは、果たしてどれほどの人がAIアートで申し込みをするのだろうか。これから少しずつ同人誌の世界をAIイラストが侵食していくのだろうか。自分の考えもそれに伴って変化していくのだろうか。もし自分が生きているうちにAIイラストに対する批判や偏見が無くなったら、自分は絵を描くことをやめるかもしれないし、辞めないかもしれない。
こんな偉そうなことを言っているが、自分は頻繁にYouTubeを見ているし、結構睡眠もしている。